レールを外れてもまだ生きる - コロポンのブログ

派遣OL、ベンチャー企業取締役になる。二児の母。ふつうの会社員にはなれなかった人のつぶやき。

3年後も5年後も想像するのちょっと辛い

こんなに辛いことだったんだな、って今日気がついた。

不妊治療中の今、子どもができるかできないかもわからないのに未来のことを考えさせるなんて酷だと思う。今日たまたま会社でそういう話題を振られて、なかなか逃げ場がなくて辛かった。

将来どうなっていたいか、なんて就活セミナーとかでありそうな質問だけど。

たしかに25歳の時にこの話題を振られたとしても困らなかったかも。30歳までに第一子、そして家庭第一にしながらも働いていたいなーとか答えてたんじゃないか。それはもう牧歌的だった。

30歳になった今。

残念ながら28歳のとき流産しちゃってからというもの、授かりものはやってこない。そうして不妊治療してるわけだけど、毎月毎月、できるかもしれないしできないかもしれない。そんな毎月先行き不透明な日々送ってるなか、数年後の想像をするのって、けっこう心理的に抵抗感があるものであると気がついた。

 

〇〇歳までに〇〇になっていたい、というのっていまは人生史上最大に超難問だなーと。そりゃお母さんになってたいけど。けど。

 

その場にもいろんなフェーズの人がいて、わたしより年上の女性で最近彼と別れたって方もいたり。もしもその方が子どもが欲しいと思ってるのにそういう状況だったら、と思うと、私は「子どもほしいです!!」とか声を大にしては言えない。

この質問に対して結局私は、「子どもは欲しいけどできるかわからないし、どっちにしても先の想像がしにくくて辛い」と正直に答えた。それでなんとなく察してくれたっぽい空気になったので報われた。

 

もやもやはまだしてる。どういうのが正解だったんだ。

 

オフィスがなくなってから3ヶ月が経った

いや、正確にはあるんですが。

もともと品川にあったんです、オフィス。駅徒歩10分の山の上にあって、通勤が登山のようで運動不足解消に一役買ってたんじゃないかって今は思います。

7月のある日のこと。
社長が突然「オフィス解約した」って言い出すからめっちゃ爆笑して。すごいなこの会社と思ったものです。なんでも家賃を浮かせたいとかなんとかで。

当初は完全に無くしちゃおうってなってたんですが、やっぱり家具とか勿体無いし、集まれる場所は欲しいよねと相成りまして。
だって品川のオフィスもけっこうこだわってDIY頑張ってたんですもの。
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あー懐かしい、いまは亡き品川オフィス。こんなかんじでした。がんばってますよね。

で、これらの備品達も捨てるのは勿体無いね、ということで、オフィスを「移転」にしようということになったのですが。家賃抑えたい、ということで、最近よくお世話になっている千葉県は成田市で借りようとなりまして。
成田山新勝寺の参道そばの一軒家をお借り上げすることに。

というわけで、成田まで片道2時間かかるので、オフィスは月1出勤になりました。つまりオフィスがあるようでないような状況。
最初はどうなることかと思ったものですが、なんとなく上手くやっています。

すごいですね、最近の技術というか。オフィスっていらないのかもしれないと本気で思います。
だってSlackでチャットすればだいたい円滑に進むし、最悪電話すればいいし。週に一度はビデオミーティングで一応顔合わせと状況確認はしていますが、これのお陰で出勤日でも1ヶ月ぶりに会ったね久々、ってかんじにはならないんです。

でもこんなすんごく遠いオフィスでも、あるといいなと思うこともあって、やっぱり帰る場所があると言いますか、集まれるホームがあるというのは心理的に落ち着きます。そして庭付き一軒家なので、炭火でバーベキューできちゃうとかいう特典つき。やったー。

あと対外的な見え方を意識しているというのもありますが。オフィスないベンチャーってけっこう怪しく思われるだろうし。

そんなこんなで、斜面に建ってる年季の入った一軒家というせいで床の傾きもピカイチなおうちではございますが、DIYをまた頑張りました。残念ながらきちんと撮った写真がないので、また折を見てDIY自慢させてください。

問題があるとすれば、本気で丸一日、家を出ない日が頻発するということでしょうか。今日も出ません。
私は一応マラソンを趣味にしているので、週2日くらいは外で走るようにしていて、歩行機能の衰えなどは感じずに済んでいるのですが、これがもしまったく運動の習慣がなかったらどういう身体になっていくのだろうという若干の不安があります。

でもそれくらいですかね。不安があるとしたら。
オフィスを都心にどーんと構えるのは、小さい会社のうちは不要なのだなあと思いました。たぶん、従業員が増えてきたら話が変わってくるとは思いますが。ベンチャー界隈な皆様には郊外の一軒家を思い切ってオフィスにしちゃう案、オススメです


そんな近況報告でした。
最近、自分がよく読むブログ達が、そのひとの些細な日常だったり小さな挑戦だったりを書いているものばかりだなーと思い、私もささやかな日常をこまめに書くのを再開しようと決意しました。
それがブログのおもしろさだなっておもいます。たいそうなことはメディアにおまかせして、私はどうでもいい毎日を書き留める楽しさを見い出しはじめております。

叱られた時のショックの消し方

読みました。

anond.hatelabo.jp

 

アラサー女子の私ですが、私も未だに同じ症状を抱えて、人生の長い間つらい思いをしてきました。

だって、なんでも時間できた瞬間にふと、嫌な思い出だけを思い出すんですよね。たぶん人間の防衛本能なんだろうとは思いますが。

私の場合は中学生くらいの記憶からつい最近の記憶まで、けっこう幅広く思い出します。例をあげようとして、最近思い出していなかった記憶をまた思い出しました。大学生のときに、マクドナルドで友達と喋りながらごはん食べてたら、たぶんその席の近くで食べてただろう男性が紙切れ一枚通りすがりに投げつけてきて、そこには「黙れデブ」的なこと書いてました。がーん。うるさくてすみません。とか言う些細なことから、友達にガチ切れされたことまで、大小問わず傷ついたことを思い出してはまた凹む、そんな毎日。

困ってたので本に助けを求めた

で、そんな毎日では苦しくて仕方なかったので、いろんな本を読みました。

そして今はわりと、昔よりは心穏やかに過ごせる日々が続いておりますので、同じ方法で全員が改善するとは思えないけど書き留めさせていただきます。

 

読んだ本で、私がいま実践してるのは下記の本です。有名なやつありますが。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

 

反応しない練習  あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」

 

 

これらの本を総合すると、私としての理解は下記となります。

 

過去は「自分」ではないと信じる

実際、自分には「いま」しかないわけで、過去の出来事は記憶が勝手にもたらしている幻想にすぎないということを基本的に信じるようにしてます。

今こうやって生きている自分、だけが自分であって、過去はもう自分ではない。

同様の主旨はバカの壁にも書いてあった気がします。

目の前に桜があるとして、余命半年を宣告されたあと見る桜をどう感じるか。宣告前とまったく感じ方は違うけど、桜はただ変わらず咲いているだけ。変わったのは風景ではなく自分。少し前の自分といまの自分の感情が変化しただけで、世界が違って見える。そんなかんじだったような。

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 

過去の自分は、もはや自分ではないので、必要以上に思い出して反省する必要はまったくない。

なにが真実かはわからないけれど、そう信じるようにしたら気持ちがラクになったし、フラッシュバックの頻度を下げることに成功したような気がします。

 

嫌なこと思い出すのは、どこかで落ち込みたいと思ってるとき、かも

過去の嫌な記憶に関連付けて、自分はなにもできない、トラウマがある、と感じるのは単なる思い込みで、今の自分には関係のないことだ。と、アドラー先生はおっしゃった、らしいです。少なくとも私はそう解釈しました。

でも実際トラウマはある、と思うのですが。

それは「できない」「やりたくない」と思いたいから、トラウマとしてフラッシュバックするのだとか。いまの自分がそう思いたいから、思い出すだけ、という。

だから、「できる」「やれる」「成功する」って思うようにすれば(すなわち、幸せになろうとする勇気を持ち続ければ)、その思い出は嫌な記憶としては思い出さないだろうし、そもそも思い出さなくて済むようになるかも。という考え方。

なんかまさに目から鱗、的な考え方だなあと思いつつ、私はそうやって考えたほうがラクに生きられるなあと感じて、信じることにしました。

 

そもそも他人の問題は自分には関係ない

他人が怒っていようがなんだろうか、いま自分の手で変えられるのは自分だけ。「他者の課題を切り捨てる」 という表現でしたが、これは本当にそうだなと思います。

だから、トラウマとして思い出すきっかけとして「あの人が怒っていたらどうしよう」とか「あの人によく思われたい」とかがあるなら、それはいまの自分には関係ないので考えなくて良い、ってことなんだと思います。

 

とにかく思い出す頻度を減らして、記憶のシナプスを断ち切る

3日前の晩御飯は思い出せないのに、10年前の嫌なことは鮮明に思い出す。

それは、何度も何度も思い出してしまっているせいで、記憶のシナプスが強固になってしまっているから、だそうで。

とにかく思い出しそうになったら、それ以上思い出さないようにする。その地味な努力を積み重ねることで、いつしかすっかり忘れられる……

そう信じてやってますが、成功しているかは不明だし、ずっと不明のままのような気がします。なんたって忘れるのに成功したら思い出せないはずなので、「実際に●個忘れることに成功しました!」とか言い始めるとものすごい矛盾が生じるわけで。せっかく忘れたのに思い出したくないので掘り返さないようにしないと。

というわけで成功したとか失敗したとかPDCA回せない系タスクですが、たぶん効果あると思います。

 

それでも思い出しそうになったら、記憶をまるめてクシャっと捨てる

いつ何時たりともフラッシュバックさんはやってくる。でもやってきたら、まずは遠目に観察する。そして、記憶を新聞紙のようにくるくるクシャクシャまるめこんで、ポイッと捨てる。すぐに好きな歌でも真剣に鼻歌する。

人間の脳みそは大変におしゃべりだしうるさいので、1分くらい嫌な思い出をそれ以上思い出さないように努力すれば、すぐに別の議題に移ってるはず。試しに5分ストップウォッチで測って脳みその議題を観察してみたら、5分前とは全くもって違うことを考えている、はず。

ということが、「反応しない練習」に書いてありました。実際これはやってますが、効果絶大だと思ってます。

なお、瞑想もこの脳みそのおしゃべりを止める技術だと思うので、効果あるんじゃないかと思います。私は瞑想を誰かに習ったことがないので正しいのかよくわからないのですが、よく脳みそがうるさすぎるときは、脳みそがしゃべらないようにする訓練をお風呂に浸かりながらとかやってます。

 

そして話はちょっと逸れるのですが、私が脳みそトラブルで悩んでいることは、トラウマのフラッシュバックとそしてもう一つ。

「他人の成功や幸せへの嫉妬」というのがあります。この嫉妬がけっこうつらい。それこそ、ぜんぜん成功していないうだつの上がらない自分を省みてしまって、しにたくなる。

でも、最近遅ればせながら「幸せになる勇気」を読んで、ちょっと改善されたので合わせて書かせてください。

 

人間の社会は「分業」。分業であるなら、他人の成功は自分も幸せであるはず

例えば自分は弓矢作るのめっちゃ得意。だけど、運動神経が悪いし足も遅いから、狩り自体は他の人に任せる。その「分業」のおかげで食物の総量が増えるなら幸せ。

狩りのエースに嫉妬しがちだけど、自分は自分の得意な場所で淡々と活躍することで分業が成功してエースが誕生するなら、それが結局自分の幸せにもなる。そんな考え方。

この考え方になるほどー、と納得して以来、あんまり嫉妬しなくなったし、他人の成功や幸せを喜べるマインドが育ちはじめました。まだまだ育ちきってないのでいつまたすぐに闇落ちするかもですが、今のところ心から納得できてるので大丈夫そうです。

 

いろいろ書きましたが、正直、本を数冊読んだだけで研究者でもなんでもないので、解釈の正確さはわからないです。が、とりあえず今私が実践してることを書いたら、フラッシュバックに苦しむひとが減るかもと思い書いてみました。

届くといいな。

 

長時間労働を意識的にやめてみた。

結論から申し上げますと、

 

・クリエイティブになったかは知らん

・でも「新しいことに挑戦してみよう」っていう気が起きやすくなった

・これは無駄な仕事ではないかと考える回数が増えた

 

という効果効能が確認されました。

 

私のスペック

いまの会社がわりと好きで、仕事も好き。これまで年に1回は転職してたけど、いまの会社は次の7月でまる3年所属してることになる。私にとっては快挙。

 

そんなわけで、会社のためにモリモリ働くことは別に苦ではなかったので、特に昨年末から4月くらいにかけての半年くらいは、残り少ない20代の体力の限り、人員的な問題と会社的な問題でしぬほど働いてみた。

具体的には、平日は22時くらいまで、土日は必ずどちらか一方は8時間ほど。まあ、世のブラック企業にお勤めの皆さまにとってすればぬるぬるのぬるま湯とは思います。

 

しかも上司やまわりの環境に強制的に働かされてたわけでなく、一応自分の意思で働いていたのであくまで企業が悪いわけではありません。

私も過去の会社では朝まで働いてたこともあったのですが、それが主な原因で転職重ねてるくらいなので、基本働きたくないマインドなのですが。それでも会社や仕事をなんとかしなきゃという虚栄のやる気みたいなのが噴出してたので、長めに働いていたのです。

 

なぜ長時間労働やめたのか

結果、私の持病的存在になりつつある適応障害になりかけました。そりゃそうだ。

そして、そこまで長く働いても、結果は変わらなかった。これ、悲しい現実。

結果、というのは、具体的には会社とか自分の事業の業績が上がったのか、で判断したのですが、これほとんど変わらなかったんです。

 

多分原因は、作業することが仕事になってたからかなあと。ただ機械のように作業するだけなら、機械がやればいいじゃない。

そして、そもそもその作業は会社にとって・ひいては社会にとって必要なのか。そして自分自身にとって必要なのか。

作業に没頭して時間を消費することで満足してたらしい。不要な作業に入り込んで浸るってのは本当に悪だと思う。

 

長時間労働をやめるために、ダラダラ続けることをやめた

その仕事に効果があるかないかなんて、結局やってみなくちゃわからない。

けど、一番の悪は、やってみた結果を検証せずだらだら続けてたこと。

 

私はウェブメディアの仕事をしてるので、具体例がそこに寄ってしまうんですが。

例えば記事配信本数を増やすってことにして頑張って増やしたらしぬほど忙しくなったんですが、まあ一応効果出たけど大局的に見ると金だけ使ったけどこれって記事本数をめちゃくちゃ増やせる資金的な体力がないと無理な戦略だったなっていう気づきを得て。とはいえ効果は出てるしなーというのでだらだら続けつつ、日々の仕事に没頭して時間だけ浪費するという虚無。

ようやくなんとかしなきゃ、って頃にはもう疲れ果ててて、手癖のように仕事してた。なんというか、頭を経由せず仕事するかんじ。

 

なので、まず、今やってる仕事をいったん止めてみた。

そして、本当に必要なものだけをリスタートしてみた。

それだけでも、案外世界は回る。

 

その上で、とにかくやってみてダメだったらすぐ変える、効果の弱いものはやめる。簡単に言うと「ダラダラ続けない」ということをはじめました。

 

するとこれまでやっていたタスクはいったい何だったんだろうという気持ちになり、効果的だと思われる仕事、それはつまり新しい仕事やクリエイティブな仕事に結果としてなるのですが、そういうものに時間を注ぐことができるようになりました。

先ほどの例でいえば、記事配信本数を減らす代わりに記事の質が上がるような編集部体制を整えたりすることに使う時間をつくることができるようになりました。

 

それが本当に効果的なのかは、結果を観測するまでは不明ですが、観測できるようになったらすぐに見て、ダラダラ続けない。ということを最近するようにしてます。

 

そもそも長時間働かないようにした

上記のは、仕事の効率化、とかかっこいい言葉で言うとそうなるのかもしれないですが、まず冷静になって仕事に没頭しすぎてないかを確認するのをまず最初にやったのは、肩の荷が下りたような気がしてよかったです。

 

次に、そもそも長々働く、ということ自体を意識的にやめました。無限に働けてしまうような仕事をしてるのでついつい働いてもいいかなという気分にはいつでもなるのですが、そこはぐっと我慢して。むやみやたらに働かないようにしました。

 

そうして、最初にあげた効果効能が確認できるようになりました。

まず、あ、あれやってみよう、とかいう前向きな気持ちが頻繁に作られるようになったっぽいです。心の余裕がないと、やりたいことなんて湧かないらしいです。

そして、定期的に自分のタスクに対する「これ無駄じゃないか」という振り返りが入るようになりました。なんたって早く帰りたいので、無駄な仕事をしたくない。

 

そんなかんじで、今は週に2回ジムに通って筋トレと水泳に励み、週末にはウォーキング・ランニングやマラソン大会出場なんかを定期的に精力的に取り組んでおります。やっぱり適度なヒマと運動は心にも良いっぽいです。

 

 

というわけでみんなマラソンやろう。いろんな地方の大会に出て大歓迎されるのたのしいぞ。

今日も定時であがれるようにがんばります。 

「旅行実況マストドン」つくりました。

私としてかなり自分のニーズにドンピシャなものを作れたので、心置きなく大宣伝いただきます。

こちらです。

mstdn.voyage

その名も「旅行実況マストドン」。ドーン
所属してる会社でつくりました。

ギークなみなさまの中で話題中の話題、マストドン。
まあざっくりいうとマストドンというのは属性ごとのTwitter、ってかんじでできることはほぼほぼTwitterだと思うのですが。
でもTwitterでは、もはやフォロワーさんが見ているという状況でバシバシとどうでもいいツイート連発するのは、私としてはかなり気が引けてしまって。

そこで、この「旅行実況マストドン」ということでございます。
ここで心置きなくミニ旅行の話をバシバシと投稿。そしてその地の在住者なんかにローカルタイムラインで見つけてもらってアドバイス貰ったりとかできちゃう。

まあそれは副産物的なもので、私の今のところの使い方としては、どうでもいいミニ旅行のどうでもいい内容をがんがんUP。で、ログにしちゃってます。
詳しくは私のページにてご確認いただきたく。

mstdn.voyage

今回の旅は、いやこれが旅なのかというとわからないのですが、JR東日本が開催している「駅からハイキング」というものがございまして、これがまあ、普段行かないような近所を歩けるという最近主に私に刺さってるシステムです。参加者の年代はかなり高めですがそんなの関係ない。

今回はなんとあの日産スタジアムでお馴染み、小机駅から小机城址・日産スタジアム・鶴見川を経由して新横浜まで戻ってくるという13kmの道が設定されてまして、日産スタジアム以外の小机の本気を発見できてなかなか幸せになれました。

そんな旅の本当にどうでもいいログをいっぱい吐けて幸せ倍増。いつも黙々とただ歩いて帰ってきていた「駅からハイキング」ってどうして楽しいのかが説明できるようになった気がします。


というわけで、実況しなくてもいいので、だらっと眺めに来ていただけたら幸いです。
ちなみにこの週末にかけて、私の同僚が東北ヒッチハイク旅行中で実況しているので、よかったらアドバイスしてあげてやってください。

ドメインはmstdn.voyageでございます。

「けものフレンズ」で人生初めてアニメを全話見た。ありがとう。

とにかく私の周りに「けものフレンズ」という単語さえ知らないひとのほうが多くて、この話ができるひとがいない。なのでせめてネットの海にメッセージボトルを投げつけることで、このどうしても誰かに話したい欲求を解放させていただきたい。

私はかつてゲーム制作界隈をぶらついていたのにも関わらず、漫画やアニメに関しては興味がほとんどなくて、特にアニメなんて全くと言っていいほど見たこともなければ見ようとも思わなかった。かつて、けいおんとかまどマギとかおそ松さんとか、そういうのが流行したというのはもちろん情報としては入ってくる、けど自分が見るというところまで行動に移したことはなかった。

どうして「けものフレンズ」は見ようと思ったのか。そもそも「けものフレンズ」という単語を認知したのはたぶん4話くらいのとき。IQが下がるだの、たーのしーだのを覚えた。そして、「みんな違ってみんないい」の世界、だけど、考察班が生まれるほどにストーリーと動物たちに奥深さがある、ということも知った。
そんな各種SNSチャネルにおける「とりあえず無条件で見てもなんだか楽しそう」という評判が、「まあ1話くらい見てみるか、無料だし」という気持ちにさせてくれた。

で、1話見た。なんかちょっと不自然で安っぽいアニメだなあって開始5分くらいは思った。
でも見終わったあとに良くわかった、「みんな違ってみんないい」。
この先どんな「みんな違ってみんないい」が繰り広げられるのか。続きが見たいと思った。とりあえずネット配信されてるもの課金して見た。動物園に行ってみたくなった。

5話あたりまで見たら、ストーリーの続きが気になるようになってきた。図書館に着いたらどうなるんだろう、かばんちゃんは何者なんだろう、そして、このお話の結末はどうするんだろう。

1週間遅れのネット配信で、ついに11話までたどり着いた。けものフレンズの結末のことで頭がいっぱいになった。次回が気になりすぎて生きるのが辛いレベル、だなんて人生で数えるほどしかないと思うけど、以前の例が思い出せないのでもしかしたらそんな気持ちになったのさえ初めてなんじゃないか、このひなびたアラサー女がこの歳でこのワクワク感。
最終回はオンタイムで見よう、と決意した。
……実際には、25時半まで起きられずに録画して寝て早起きして、スマホをいじる前に見た。

まあ、泣いた。泣くの我慢しまくって疲れた。それでもこぼれた。
全話きちんと見てきたからこその、ご褒美のような最終回。今まで見てきたからこそ納得感のあるフレンズ達の行動の数々。そして無事、ハッピーエンド。
全話見て良かった。本当に良かった。

これをきっかけにアニメが好きになる、ということはないかなあとは思うけど、「深夜アニメ」に対しての考え方は少し変わった。
けものフレンズなんて、別に内容自体は朝でもゴールデンタイムでも放映できるし。「深夜アニメ」という語感の印象が変わった。

あと、動物園行きたい。

寄稿のご報告と、稼げないブログについて。

下記記事を寄稿させていただきました。

www.e-aidem.com


「女性の生き方・働き方」系で、きちんとしたかたちで寄稿するのは初めてのこと。
まずお声をかけていただいたこと、そしていつしかライフワークにしたいと考えている方面での寄稿依頼だったことで、嬉しさのあまりいつも読んでくださっている皆様にもご報告です。

ブログは、稼げない

巷では、ブログに好きなこと書いても稼げない的なエントリがよく読まれているようですが、私も概ね同意していて、もしブログだけで飯を食うとしたらジャンルを絞ってビジネスだと割り切ってやったほうが効率がいい。一応いまの仕事はそういったジャンルも主戦場の一部なので、やろうと思えばもっとPDCA回してやらないといけないということは身をもって知っているつもり。

写真家界隈でも同じような話、ありますね。

私は、あの青い池の写真がAppleに採用されたケント白石というお方の、「好きな写真を撮るために、宿業と両立させる」というスタンスが好きで、影響受けているような気がします(参考記事)。

プロのカメラマンなんかやってしまったら、"写真で食える"のは間違いないけど、クライアントのニーズに沿った写真しか撮れないだろうし。あくまで写真を自己表現やアートの場だと捉えるなら、クライアントのニーズよりも自分の感情を写真として表現したいわけで。となると、いくら写真を"綺麗に撮れる"としても、プロのカメラマンとしては生きていけない(し、そんな生き方したくない、とケント白石氏は言ってます)。

アフィリエイトサイトも、ブロガーも然り。読者のニーズを汲み取って、読者のニーズに応える記事を書かなければ、食ってはいけません。好きなことなんか書いても儲からないのは、このあたりのロジックだと思ってます。
本当に好きなこと書いて生きていきたいんだったら、別の事業と両立させるのが実はいま、一番いいのかも。

それでもブログを書く理由

でもそんな中で、自分のブログだけは「書きたいから書く」「書きたいことだけ書く」ということを細々と続けてきました。

細々すぎて、もう開設からは7年くらい経っているような気がするけど、結果として儲かってはいないです。それに加えて読者数を伸ばす努力も怠っちゃって、たいしたPVもないです。本当に。(そんな中で読んでくださっている皆様にはなんと感謝したら良いのか)

でもそんな弱小ブログをはてなの片隅でしたためるなかで芽生えてきた感情としては。
自分の生き方や考え方を書くことで、「少しでも同じように苦しんでるひとの役に立つことはできないのだろうか」という、思い。

政治家になりたいひとの気持ちなんてまったくわからなかったけど、たしかに社会を変えるには政治家になるのが早そう。ブログ書くよりも世界を変えられる。

でも私はやっと落ち着いた今の仕事が好きだし、今の仕事を続けながら気持ちをアウトプットして、そして少しでも誰かの人生や社会を良い方向に変えられるとしたら、それは願ってもない好機だなあと。
りっすんさんの記事のブコメに、「つわりを我慢しないで明日報告してみようと思う」というコメントがついていて、じんわりきたというのもいい経験です。

そういう考えに至っていた今、こういう寄稿のチャンスをいただけるというのは本当にありがたいです。
こういうアプローチで、本業と執筆業の両輪をくるくると回していけたら。今のところそれが、私の生き方でしっくりきています。


というわけで、ブログっていうのは直接的に稼ぐためだけのツールじゃないよと言いたい。こうやってなんらか頑張って、誰かのことを思いながら書いた文章っていうのは、大半はインターネット海の藻屑となるようだけど、少なくとも自分の糧となって蓄積されるようだということだけは忘れないでいたいです。


どうでもいいけど、今回引用させていただいたニャートさんが出てきたときはキャラかぶってるなーとかなんか仲間かなとか思ってたのに、いつの間にはるかに有名になられたようで、なんというか、悲しいけど、応援してます。一緒に仕事できる日がくると嬉しいな…なんて。。

寄稿報告だけしようと思って画面に向かったら、結局いっぱい書いちゃうあたり、やっぱりわたし、がちゃがちゃと気持ちを打ち込むの好きなようです。生きられるようにがんばります。

流産したという"呪い"を2016年に置いていく。

2015年12月、流産した。
1年たった。まだつわりの記憶は癒えない。毎朝起きるたびに「今日もだめか」と思い、安定期とか言われる日までの日数を指折り数え、そして吐いてた1年前の記憶が脳みそに刻まれて未だに消えない。お腹の命は8週で途絶えていたようだけど、10週で掻爬手術を受けるまでつわっていたので、少なくとも1ヶ月半はもがいていたことになる。

その記憶は確かに刻まれているけど、いまの日常生活では大して気にしていなかった。もう終わったことだから。
でも手術してすっきりとした身体で2016年を迎えたのにも関わらず、今年、ついに子どもを授かるという努力を怠って、あれから1年経ってしまった。

正直こわくて。あの吐き気とあの気だるさがまた襲ってくるかもしれないのをわかっていながら、その原因を作るのがこわい。でも子ども欲しいんだけど。というどうしようもない矛盾が、言葉にすることはなかったけれど、自分の心の奥底を支配していたと思う。

でも、つい最近、その呪いがやっと解けた。丸1年、喪に服していたような考え方を貫いてしまった私の思考回路に、ようやく光明が差した。

そのきっかけは、職場の元同僚の妊娠だった。
3ヶ月ぶりに会ったときにはすでに安定期を迎えていた。
ざっくりいうと非常にサバサバした女性で、妊娠していてもう4ヶ月になる、というのもわりとサクッと伝えてくれた。

一緒にいてほとんどウェットな話をしないクールビューティーな女性だったので、まさか、つわりの話でここまで花咲くとは思っていなかった。つわりがあったとしても、まあドライに受け流しそう、というイメージの先輩だったし。
毎朝起きるたびに悲観したこと、日中はまったく動けなかったこと、ただでさえ痩せ型なのに4kgも痩せたこと、2駅先の駅でさえ行くのが辛かったこと。
そして吐き気の波がくるたびにスマホを握りしめて、知恵袋や小町やベネッセのウィメンズパークやTwitterやインスタで、同じ状態のひとを探しては「まだがんばれる」と自分を勇気づけていたこと。
私もやっていたことばかりだった。自分ひとりが苦しい思いをしているような錯覚を覚えたことも、同じ経験だった。なぜかネットで検索するというその行動、そして同じ知恵袋に行きついて勇気をもらって涙してたこと。

そして彼女は「あの時、よく仕事できましたね。よく出社しましたね、すごいと思いますよ」と私に言ってくれた。
別に誰かに認めてもらいたかったわけではない。1年も前のことを励まされたくてそういう話をしたわけでもない。なのに、ただそうやって、本当の意味で「共感」してくれる人が現れた。誰にも話せなかったことを話せた、いやこれまでも十分話せていたのだけど、本当には話せていなかったことを話せた。
とにかく、「共感」が欲しかったのだ。私も苦しんでいる、あなたもそうなんだ、一緒にがんばろう、と。ただそれだけで良かった。私もまたつわりになるかもしれないけど、それでもわかってくれる人がいるんだから、ひとりじゃない。ようやくそう思えた。
「共感」というたったそれだけで、私がこの1年間、勝手に"呪い"にかかっていた、その呪縛から解き放たれた気がした。たったそれだけなのに、驚くほど、晴れやかな気持ちになった。

2017年は、ようやく、前向きに子どもを授かる努力ができそうな気がします。
先輩も近くにいるし。周囲に同じ境遇のひとがいないというのも足かせのひとつになっていたようだったけど、その足かせも外れて。ようやく心から前向きになれました。
まあ、とはいえ、「授かりもの」ということもわかっているので、気長に考えますが。


今週のお題「2017年にやりたいこと」に寄せさせていただきました。
それにしても、当時登録したベネッセから「生後6ヶ月のお子さんを持つお母さんへ」みたいな冊子が毎月送られてくるんだけど、なんかベネッセの中ではすくすく成長してるっぽいからこのまま放っておこうかーと思ってたけど資源の無駄だしそれも今日停止する手続きしてみようと思います。もう1年も前のことだからどのアカウントかわからない。2016年最後の大掃除、時間がかかりそうです。

ルンバと食洗機を買ったら、無言のプレッシャーから解放された。

自分用のクリスマスプレゼントとして、思い切ってルンバさんと食洗機さんを購入。
彼らの活躍ぶりを見ると、もはや敬称をつけざるを得ない。

なにが助かったか、それは「家事が楽になる」というのはみなさんご存知のとおりなのですが。
メンタルへなちょこの私が感じたメリットは、そんな言葉じゃ片付けられないものでした。
今まで受けていた、「お前、家事もできない女なんだな」という無言のプレッシャーから解放されたのです。

いや、先に否定しておきますと、こんなこと旦那は言わないです。親も含めて誰にもそんなこと言われたことはないです。
でも、私は勝手に感じてた。無言のプレッシャー。
「お前、共働きだからといって、旦那より年収も低いわけだし、お前が家事率先してやらないでどうするんだ。家庭のこと考えているのか」
と。

正確には、そんな無言のプレッシャーを日々感じながら暮らしていたということに、気づいてなかったんです。
でも我が家にルンバや食洗機が来て、ついに気づきました。
帰宅したときにふわっと転がる犬の毛のかたまりを見るたびに、心に重圧を受けてた、ということに。
シンクの中に積みっぱなしの食器を見るたびに、自分自身を無意識に責めてた、ということに。

まあ私が悪いんです。ごはん食べたらさっさと皿洗いすれば良いし、犬の毛見つけたらさっさと掃除機かければ良かったんです。
それを面倒くさがって睡眠を優先して、その結果、朝起きて勝手に無意識に傷ついてた。笑える。そして情けない。
そんなぐだぐだした日常。日常すぎて、それが普通だと思ってたんだけど。

ルンバが勝手に掃除してくれて、食洗機が勝手に洗ってくれる。
ただそれだけなんですけど。
それだけで、私の日常が救われた。頑張らなくて良かったのだなあ、なんて思ったり。

よくよく考えたら、私が家事が上手になったわけでもなんでもないので、「お前家事少しはがんばれよ」状態であることには引き続き変わりはないとは思うのですが。それでも日々目に見えて残念な事象である「毛玉現象」と「食器積み上げ現象」だけでも技術の力で解消できたことを思うと、本当にありがたいです。
それでなんだか気持ちが楽になって、ルンバさんがせっせと床掃除してる間に液晶テレビをサッサでいつもより細かく拭いたりしちゃってます。こんなかんじで、技術の進歩と私のやる気のコラボによって、家の中にはびこる残念な事象をなんとか少しでも減らしたいと目論んでいるところです。

次は工面して洗濯乾燥機を入手したいけど、だいぶ先になりそうだなあ。
でもこうやって一歩ずつでも自動化できることをしていくことで、暮らしが豊かになるっぽいというのは本当だということを理解しました。


ちなみに、うちのコーギーのむぎさんにとっては、ルンバさんという後輩ができたことになるのですが、どうやら勝手に衝突してくる彼に対してあまり好意を持っていないようです。
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威嚇こそしないけど、完全に避けてます。じゃれたりされても困るので、お互いにとって一番良い距離感を創出することに成功したのではないかと思っています。

なお、私が購入したルンバはこちらです。

どうやら600番台は吸引力が弱いとのことで、800番台を選択。
たまたまAmazonでセールしていたという奇跡に出会って買ってしまいました。

食洗機はこちら。

乾燥機能なしの男気あふれる仕様なのですが、放っておけば乾いているので今のところ問題なし。
中古で購入、自分で取付工事したのでなかなか安く済みました。

WELQの件と、真面目に生きてきたWebメディアの正念場と、「内職」のこと

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実のところ、こういうWeb系の「適法じゃない問題」に当事者に近い立場で参加するのは3回目。
1回目は、コンプガチャ問題。この時、もうソーシャルゲーム作るのはきついなと感じた。いかに面白いゲームを作るかなんてどうでもよくて、ユーザからいかに金をむしり取るかのほうが大事だった。ビジネスとはそういうものなのかなと思った。面白いゲーム作ってみんな幸せになれたらいいなって思って新卒でゲーム業界入って、それで現実を見せられたかんじ。大半以上は私が甘かったんだと思う。
2回目は、二重価格問題。シュークリームの元値が12,000円と表示されてた件。ただの労働員だったということもあって、まあこれは、自分つまんない仕事してるなーと思った程度。言われたとおりやってただけだし(その気持ちがいけないのだけど、そういう態度でないとあの社会では生きていけない)。
そして、今回のWELQ問題。私がちょうどWebメディアに参戦したころに、彼らも参戦したらしい。当時はNAVER一強だったけど、いつの間にやら彼らのコンテンツに支配されてた。私が作るコンテンツは、そんな彼らのコンテンツの下に、ほそぼそと表示されてる。なんとかしたかったけど、どうにも勝てない日々だった。

いつもいつも、儲かるからといってインターネットをグレーに染めていく人たちが、当然のように儲かっていく。
そんな状況で私がしていることといえば、いち労働員として後処理に追われるか、儲からない蚊帳の外で落穂ひろいを粛々としているだけ。

真面目系Webメディアの正念場

いち労働員だったコンプガチャや二重価格問題のころは、「早くこんな世界から逃げよう」と思って実際逃げて、それで良かったのだけど。
でも今回は違う。Webメディアのコンテンツを作る責任を伴う立場で、WELQ問題が延焼していくのを見た。私はずっと、WELQと同様の手法で作られているFind Travelや、記事の作り方としてはそれらとほぼ一緒だと思われるRETRIPなどの旅行系メディアのコンテンツの作り方について疑問を持っていて、それらへの反発から、「すべて現地取材」を掲げた旅行系Webメディアを立ち上げたという経緯もある。
まあ、これが儲からない。1本あたりの制作コストが断然違うし、量も出せないし、おまけに投資できる金もない。ライターさんにはもっと報酬お渡ししたいのに、利益を出すことができない今それも難しいという状況。適法だけど儲からないビジネス、そんなビジネスをやっている私が悪い。センスがない。
ビジネスを作る力が弱すぎるのだろう。適法なやり方でビジネスを作れさえすれば、パクリメディアが蔓延することもなかっただろう。それを編みだせずこんなウジウジしてるから、インターネットの世界もこうなってしまった。ビジネスを作らないと。

真面目にやってきたWebメディアはついに正念場を迎えたのだと思う。ここで利益出せる仕組み作らないと、世の中に自分が面白いと思えるコンテンツを発信することがもうできなくなっちゃう。デイリーポータルさんもだいぶ長い間赤字だったみたいだけど、こちらは弱小ベンチャー企業。会社を潰したくない。なんとかしないと。なんとかします。という決意表明も兼ねて。

キュレーションメディアの1円ライターのこと

あとは、キュレーションメディアの1円ライター、つまり私としてはそれはパソコンとキーボードを使った「内職」だと思ってるんですが、それについてもモヤモヤがあるものの考えがまとまってないのでまた今度書けたら書かせてください。
なんというか、内職の需要があるのをいいことに、適法じゃないことを安い単価でやらせるなんて、ほんと悲しいと思って。私も大手でガッチガチに働くことはメンタル的にたぶん難しくて、家で働けたらなあと思うことが多いほうです(今は毎日出社しなくていい会社なのでそれも込みで潰したくない)。
世の中こんなに便利になってるのに、家にいながらにして働くことはまだ現実ラインとしては難しい。救世主だったはずのクラウドワークスやランサーズが、キュレーションメディアの案件で埋め尽くされる(おまけに今なお案件は減ってない)。その悲しさへの答えをまだ見つけられずにいます。

そしてうちの母親が、簿記も持ってて大手インフラ系企業でそれなりにやってたのにも関わらず、自分と弟を育てるために家にいなきゃいけなくて、それでやってたのが昆布を縛る仕事とのし袋にのしをつける仕事だった、というのを思い出しました。昆布を縛る仕事のほうは、私が潮臭いと学校で言われるようになったのをついに母親に言ったら辞めることになったけど。つらい記憶思い出してしもうた。
なんとかしたいのだけど。いまこのご時世ならなんとかできそうなのに。